ローレライの花
ずっと聞こえていた“音”があった。
いつから聞こえていたのかは覚えていないけれど、たまに風に乗って聞こえてくるのは高くない、けれど低くもない不思議な“音”。
けれど、みんな聞こえていないみたいだったから、何となく黙っておこうと思ったんだ。
それが“声”だと知ったのは音が朝からずっと聞こえていた日。
いつもはたまにしか聞こえないそれが、何故かその日は頻りに聞こえるものだからつい煩わしくなって、自分の髪を優しげに梳いている母にたずねたのだ。
ねぇ、この音ってなぁに?
いつも笑顔でいる母の、驚いた顔を見るのはその時が初めてで。
髪を梳く手が僅かに震えていて、何か悪いことを言ったかと、途端に不安になる。
どこか悲しげに伏せられた母の顔をこれ以上見たくなくて、ギュッと、母の首に抱きついた。
『海の、声だよ』
抱き返された腕の中で、ただ泣きそうな母の声を聞いていた。
“はやくはやく”
“追いついてしまうよ”
“捕まってしまうよ”
“はやくはやく”
ポツリ、ポツリと、一粒、二粒。
段々と多くなる雨粒も、必死に息継ぎをしながら走る自分にとってはただ煩わしいだけ。
「待て、このガキっ!!」
後方から聞こえるのは、複数の男達の声。
多分なんて言葉で表さなくとも、追いかけられているのは確実だった。
(何でっ、こんなことに……っ!)
確かに、追いかけられる理由には心当たりがあった。
それは街を歩いているときに、不意に彼らの内のひとりとぶつかってしまったとき。
まぁ、何というか、見目のよろしくない連中であったのが運の尽きなのだろうか、慰謝料だの治療費だのとまくし立てる彼らの圧力から思わずアリババは逃げ出してしまったのだ。
彼らにとって自分はカモなのだろう、しかも絶好の。
しかし逃げ出してしまった今となっては捕まるわけにはいかない。
あのように激昂した人間がもしも逃げ出した獲物を再度捕まえたとしたら、次にする行動など目に見えている。
(モルジアナを連れてくれば良かったっ!!)
もしくはアラジン……いや、やっぱりモルジアナで…、などと考え事をしているが余裕があるわけではない。
逆に本格的に降り出した雨に足をとられかけたりしているせいか、後方との距離は心なしか短くなっているような気がする。
(何とかしてまかないと……)
“ こっち ”
「っ、!?」
突然聞こえた、頭に直接響くようなそれは今となっては最早慣れ親しんだもので。
それを疑う間もなく、アリババは声の聞こえた方へと更に走るスピードをあげた。
疑う?そんなこと必要ない。
だって、この声は絶対に自分に嘘をつくことなど無いのだ。
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降り出した雨に一つ溜め息をついた。
先程から曇ってはいたのだが、まだ大丈夫と自分に言い聞かせるようにしていたせいか、勿論傘などは持っているはずがない。
途中の店で買うのも癪だし、かと言って直ぐに雨が止みそうかと問われれば答えは既に出ているも同じ。
だが、次第に激しさを増す雨にもう一度溜め息をついた。
もういっそのこと傘を買ってしまおうか。
別に、絶対に傘を買いたくないと言う訳ではない。ただ、降り出してから買うのが何故か癪なだけだ。
なんて、途方も無い言い訳を繰り返しながらジャーファルは目の前の店に入った。
「すみません、誰かいませんか?」
そう奥の方まで聞こえるように言えば、出てきたのは人がよさそうな老人。
まとう雰囲気は柔らかで、街の中心から離れたこの店にピッタリだと思った。
老人は雨に濡れたジャーファルを見て、優しそうに笑ってからまた奥に戻った。
しばらくして帰ってきたとき、老人の手に握られていたのは一本の傘。
多分、濡れた自分の姿を見て察したのだろう。
ありがたいが、若干恥ずかしいような気もする。
すみませんと言って、差し出されたそれを手に取った。
「それにしても、お前さん間が悪かったね。人魚の雨降らしに遭うなんて」
「人魚の、雨降らし?」
老人が言うには、この国には滅多なことがない限り雨が降らないのだという。
特に今の時期がまさにそれで、一月に一度有るか無いかの雨は既にもう降ってしまっていたらしい。
日照りを嫌う人魚が危惧して降らす、恵みの雨。
それは、人魚伝説で有名なバルバッドならではの、呼び名に似たもの。
「だから儂らは感謝せんと」
そう言って、老人はまたホケホケと笑った。
“はやくはやく”
“捕まってしまうよ”
“はやくはやく”
“はやくはやく”
雨はまだ、止みそうもなかった。